2014年02月01日

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ある1年だけ
その1年すべて
スティーブンキングだけを読んでいた

4+ですが

みなさんいかがお過ごしでしょうか?

これ前にも書きましたね。

だんだん記憶が曖昧になっていきますがキングだけをその1年でたしか60冊くらい読んだと思います。

その時はほんとなにかとちくるっていたのでしょうけれども
そういうときがあってもいいじゃないか(ちょっとえなりくん的に)
と思う今日この頃です。

1年とは言わないけれど
他にもまたそういう時期があったりもしました。

ある時期はビートと呼ばれる方々の本や研究本、解説本、書簡などを
読みあさった時期があります。

自分的にブームが訪れ
ドアーズのレイマンザレクが奏でる音を聞きながら
「吠える」や「路上」「裸のランチ」などなどを。
きどってやがるぜ、わたし。

今日は
そのころ考えたことついての考察をば。


いきなり関係ないですが
多くバンドなどを掛け持ちしている時に
人を集めて詩を朗読してもらいながらその詩に合わせてインプロビゼーション演奏をする
ライヴを考えたりしました。
それは残念ながら実現しませんでしたがそのような考えが元にあって
5連続ワンマンの時の「Nのものがたり」に繋がったりしたのを
どこかのMCで話した覚えがあります。


人を集めてライヴをやると言うと
これもずいぶん前の話ですが
ヴォーカルを13人集めて「クリムゾン・キングの宮殿」をカヴァーしてライヴしたことがありました。
ライヴの持ち時間すべてをその一曲だけで過ごすという
なんともおかしなことをしたりしていました。
だんだん人が増えていって。交代で歌ってもらって。
コーラス部分は大合唱な訳です。
おかしいですね。

そのころは
やっぱり将来の最終到着地はコミックバンドかな
なんて半分本気で話していたり。(そんなの簡単には言っちゃいけないほどコミックバンドは難しいと考えます)
おかしなこと は案外、面白い に繋がっていたりしました。



話がそれましたが
徐々に戻ります。


ビートの作品を読むと
詩についての変遷についても考えます。


独学な勝手な解釈な上で書きますが
日本だと万葉集とかそういったところまで遡れるんですよね。

和歌ってやつですが五七に則っています。
歴史に残るものですしなかなかわかりづらいですが
美しいものや悲しいものなどこころに訴えかけるものがいくつもあります。
のちのち枕詞などの修辞がうまれ
俳句などと合わせて詩歌と呼ばれるようになります。
日本では五七の形で進みますが


中国では
漢詩というやつがありますよね。
(NHKの漢詩紀行、朝早かったけれど結構好きでした。江守さん、そして中村吉右衛門さん朗読がよかったですよね)
時代を経て律詩、絶句、の形式が生まれて
韻が踏まれるわけです。技術ですね。

もちろんヨーロッパ諸国、
ギリシャ、イギリスなどなどで詩の形が生まれるわけですが


結局なにをば言いたいかというと


それぞれの中で
詩の形式や技術というのが発達していくんですよね。


これはどこでも一緒だと思います。


形が生まれ

進化していく。


美しいんです。詩というやつは。



そして
後の世に
それを壊す人が現われるのです。


日本でいうと自由律俳句とか。漢詩は形を変えていきますよね。
イギリスでは独白とか。
詩には様々な壊し方があるようです。
作られたルールを壊していくんですよね。

そこに新しさがあるのです。

そしてそれにまた飽きると
そしてまた新たに原点懐古をする。
繰り返していくのです。


かなりざっくりな話ですが

なにかに似ていませんか?

音楽の歴史に似ているんですよね。簡単ですが
クラシック、ポピュラー、ときて
ロックでそれを壊す。
ロックの中にもそういうサイクルがあって
古典ロックからメタル、ミクスチャーなどへ。
こういうのは何度か書いたことがありますね。


そんな中で
壊す、というのは案外楽と私は思うわけです。
目の前にあるものを違う形にする、という意味でです。

何もないところから生み出すというのが
やはり難しいもので
創り出した人
というのはやはりすごいと思うのです。


そんなこんなで
一つのジャンルの中で
形がうまれ、壊され、また原点が見直され
というサイクルが生まれてきます。




ふんわりと進めてきましたが
ここでやっとビートに戻ります。

ビートニクは詩や小説というジャンルではある意味壊す側の位置に属するのだと思うのですが
これがまたちょっと他とは違うように感じるのです。
どう違うのかというと

精神世界と日常の破壊
とでも言いますか

形式やレトリックに対する破壊とか懐古ではなくて
精神的部分を追求をする、
そしてその作家たちの日常が非日常と化している

という感じです。

一種、宗教や精神学のようなジャンルにいっているような感じなのです。

まるで小説や詩の範疇を越えてしまっているようです。
詩や小説を道具としてなにか他のことをやっている、ようなイメージです。

そういう、
詩や小説の
形式や歴史とかに対して
ビートはどの位置なのか
と考えるよりも

一つのジャンルというか分野として捉えていいんではないかと
勝手ながら思うのです。
詩、小説、音楽、映画、ビート、料理、、、、
みたいに。


もしかしたらですが
ビートニクというものの中で
形式がうまれ、修辞がうまれ
歴史ができていくのかもしれません。


と、いいつつも
なぞる人は多くても
その歴史的にはもう発展していないんですよね。
思うに継承者がいない。


自分の生活が
日常が
すべて非日常だったらどうしますか?

そういう世界に入り込む人は
なかなかいないし
しかしそうでなかったら
ビートという分野には入れないんじゃないかと。


ということで

ビートというのは
再現されることない
歴史上の出来事である。



と、


その当時の
読みあさっていた当時の
私は
考え至ったのです。



壊すのは簡単で
生み出すというのは
やはりとても難しいこと。

その生み出した側の人々ではないか。
という
私の中のリトル4+が考えた
勝手なお話でした


マル
posted by yonpurasu at 15:00| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする