2016年08月20日

ギリギリ

オリンピック、観れるときは結構観ている

4+ですが


みなさんいかがお過ごしでしょうか。


人間が極限の状態ではどのようになるのかの景色を
映画ではなく現実の世界で見たのでここに書いてみます。




競歩、終盤での出来事です。
日本の選手が前を行く3位の選手を追い抜こうとした時
3位の選手が肘打ちするんです。

横を通ろうとした日本選手が近かったのは確かですが
前を行く他国の選手の肘打ちが出るんですね。

これはもう、極限で戦っていて限界が近い中で
追い抜かれたくない気持ちがそうさせたのだと思います。

たぶん終盤なんでもう少しでメダルの中、追い抜かれたくないんですね。
抜かれたくない、どうすればいいか、そうだ、肘打ちをしよう
と考えたわけではなく
きっと反射的にそうしてしまったのだと思います。

世界に放送されている、国際的なレースであるにもかかわらず。

何度も試合に出ているであろう選手は
追い抜いたり追い抜かれた経験は今まで多々あるでしょうが

ギリギリの中で戦っている極限の状態にいると
ルールや論理は通用しない、人間の本能のようなものをその場面に感じました。

肘打ちをした選手は
たぶんですが

肘打ちをした直後に
[あっ!]

と思ったに違いありません。

[やってしまった]

と。

何を思ったか
肘打ちした後
その選手が何をしたかというと
少し時間を置いてから
ヨロヨロし始めました。

よろけたんです。

これはもう、相手が悪いとかを主張するためじゃないんです。
動物としての人間から
社会を築き上げた人間へと
戻ったのではないでしょうか。

肘打ちして、あっ!と正気に戻り
ふらふらヨロヨロすることで
心から崩れた自分をごまかしたんです。(たぶんですよ。真相はわかりません)

たぶんですが
それくらい
極限で戦っているのです。

そんな戦いを観ることができるのは
人間が作った幻想の境界である国家というものを背負って戦っている
オリンピックだからこそ、と思います。

ここに書いた試合やレースだけでなく私が感動したり感銘したものは数多くあります。

まさに祭典です。


そして


この極限での人間の振る舞いを見て
ちょっと思うに

世の中は
極限でなくても肘打ちばかりをする人が多いような気がします。
それはギリギリの中で戦ったことがないからなのかもしれません。
そしてそういう人は、自分のギリギリが、自分の限界点がとても低いことを露呈してしまっているのかもしれません。経験が少ないのかもしれません。試合をしてきた数が少ないのかもしれません。

ま、全ては憶測にしか過ぎませんが
今回の競歩の一場面は
そんな、本当の意味で
戦う
とは何か
について考えさせられました

マル
posted by yonpurasu at 13:06| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

みそ汁と横断歩道

ずいぶん前ですが
あるときテレビを垂れ流しにしていたら
料理が得意ではない主婦に料理家がその基本を教えにいく、
みたいな番組がありました。
ちょっと手厳しい料理家の先生がその人に自宅に行くみたいなもの。
それがレギュラーのものなのか単発なものかはわかりませんが
たまたまつけていたテレビで放送されていました。

そのときは基本も基本のみそ汁について。
みそ汁の作り方を先生が厳しく教え
わかりやすいくらい料理への知識のないのを表現しながら教えを請う主婦。
みそ汁を教えるというあまりに基本過ぎる番組であるがゆえ、それがまた厳しいという内容がため、
ちょっと見てしまったのですが
みそ汁を仕上げる最後の最後に
『醤油を一滴いれるんだよ。これは味と言うよりも愛情。家族への愛情』
と先生が言って醤油を一滴みそ汁に入れていました。

曲を作る時にも
その楽曲に大きな変化はないけれど、むしろ気がつかないであろうけれどきっと聴く人に楽しんでもらえると思って
時間をかけて仕掛けを作ることが多々あります。
例えば以前も言ったことがありますが歌録りのときにnorさんが傘をさしながら歌レコーディングしたり。(ま、これはかなり特殊な例ですが)

料理も音楽も
つくる
という根底の部分で同じものなのだなー
とふと思ったことがありました。



つい先日ですが
横断歩道を渡っていました。
ちょっと大きめの街道。結果横断歩道も少し長めになります。

そこに親子が来ました。見た感じお母さんと小学生のこども。
横断歩道からちょっと離れたところにあるコンビニから出てきて
横断歩道を渡りたかったのでしょう、歩道側が青になっているのを見て
お母さんが何かをこどもに言って走りはじめました。
ちょうどその時横断歩道の信号が点滅をはじめました。
二人は急ぎます。買い物袋を下げこどもに気を使いながら走る母親。それに続くこども。

私の横をすれ違っていったのですが、そのとき気付いたことがあります。

二人とも笑顔なのです。

走りながら笑っています。急いでいるのでちょっと苦しいはずなのに笑顔なのです。
みなさんも経験ないですか?横断歩道を渡らなくちゃ行けない時や駅に着くのが電車の発車時間ギリギリになったり。

その時、誰かといるとなんだか笑顔になりませんか?
一緒に、急いで目的地に着こうとするとなんだか笑顔になります。
けっこうな確率でそうなると思うんです。

一人じゃだめですよね。朝、通勤で駅に向かう人が慌てて走っている時の笑顔にはあまり会ったありません。(一人で走って笑顔だとまわりが少し怖い)
でも実際はなんだかわかりませんがたとえ朝の通勤に向かう時だったとしてもカップルのような人がいたとしてその人たちが慌てていたとしたらきっとその瞬間は笑顔のような気がします。たぶんだけど。そんなのを見たことがあるような気がします。

なんでなのかなーと思ったのですが
簡単に単純に考えると
そういうのって幸せなんだと思うんです。

一緒に何かをできるって
とても幸せなことなんだと。

それが横断歩道を信号が点滅しているときに急いで渡ろうとするだけのことでも。
その瞬間は記憶に残らなくても心の奥底にたまっていくものなんじゃないかと
普段の生活の時には感じない、ちょっとした緊張感や焦燥感、時間、空間をふと気にしたり経験をする時に
一緒に何かをしている感覚が生まれてくるのではないかと。

横断歩道で親子とすれ違う時にそんなことを感じ、あとで考えてみてそんなところに行き着いたわけです。



今日は少し、愛と幸せ、について、ほんのちょっとだけ考えてみました。
みそ汁では愛情、横断歩道では幸せ
について無知な私は少し学んだような気がしました。

人と話したり経験をすることで学ぶことも多いですが
自分とは関わりのない世の中にほんの少し目を向けてみるだけでも
何か感じ取れることがあるのかもしれません。

ちなみにですがみそ汁の番組を見てから私もみそ汁を作る時に最後に醤油を一滴入れるようになりました。
それはきっとたぶん自分への愛情。の巻。
一人寂しくみそ汁を作る時にふと思いついた話。
posted by yonpurasu at 12:32| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月13日

パセリとにおいと洗剤とわたし

朝摘みおれんじのCM音楽が
オオカミこどもにあまりに似ているので

そうなのかな

と調べたら

そのままサントラ使っているとのこと。
ふむふむ。

何かの麦酒のコマーシャルの曲が
リチャードマークスのヒット曲Right Here Waitingにあまりに似ているので

カヴァーなのかな

と調べたら

それは違った


今日この頃

みなさんいかがお過ごしでしょうか?

Right Here Waiting、懐かしすぎる曲ですね。



先日書いた
パセリ。
大量に食べるとどうのこうの書きましたが
パセリの名誉のために今書き足しますが
鉄分、ビタミンCは野菜やくだものの中でトップで
カロチンなんかもトップクラスだそうです。
さらに貧血や食中毒を予防するとのこと。

すごいですね、パセリ。

やるな。パセリ。

そして
食後に食べるとにおい消しにもなるそう。

なんなのでしょう、この有能な感じは。

だからこそにおいの多いメイン料理についてきたりするんですね。




においといえば

最近の洗剤や消臭剤など
臭いを消すものが多々コマーシャルされていますよね。
ドラッグストアなんかに行ってもそういう商品の多さにびっくりします。

かくいう私も
洗剤をNANOXとHYGIAを二つ持っていて使い分けたりなんかしています。

ま、自分の場合はそういうの気になりますよね。

でも、そんななかで一つ思うことがあるのです。
それは人本来のにおい。
その大切さのことを考えてしまうのです。

ここからは勝手な考察をば。


人は自分の人生のパートナーを選ぶ時に
いろいろな条件を人それぞれが持っているかと思います。

たとえば

相手の容姿、服のセンスなどなど(今この場合の例はあえて偏ったものを上げてみます)
世間でいわれているものは多々あるかと思いますが

それらの多くは感覚的な部分で区別すると視覚的感覚だったりするわけです。

でも
人の感覚はそれだけじゃなくて
聴覚であったり味覚であったり嗅覚だったりもあるわけです。


耳でいえば声。
味覚ならば手料理とか。

そして

嗅覚もあるかと思うのです。

人が人を引きつけるものの一つに
気がつくことのないくらいの人のかおりが
何かしらその人との仲に影響を及ぼしているように感じるのです。


だからこそ
においを消したり香りを付けたり。

においを消すことで
気付かぬうちに他人とのコミュニケーションの中にある
においによる不利点を避けようとしているのではないでしょうか。

不快な思いをさせないように(スポーツ後とか仕事後)とか
もしくは本心を読まれないように(商談など)とか
姿を見られないように(忍者)とか。あ、それはちがうか。


ある意味現代的で
発達したコミュニケーションを必要とする場所では
とても大切なことなのかもしれないです。

でも、
実は人類は一つ大切なことを見逃しているのではないかと

勝手に独断的に思うのです。
(人類なんて言っちゃった。ふふふ。)



そう、
人生のパートナーを見つける能力の一つ
嗅覚での可能性が失われつつあるのではないでしょうか?

人というのは生きているのですから
綺麗にもできれば
活動すれば汚れることもあります。
いきものなのです。いきものにはにおいがあります。
それぞれ違うからだつきを持っているように
違う声を持っているように、
それぞれが間違いなく固有のにおいを持っている訳です。


そんななかで
嗅覚だけでいうと
無意識に自分とは合わないにおいを持っている人がいればそれに気付き
また、好みの香りを持つ(においと気がつかないくらいの)人がいれば
無意識にその人に好感を持つことになるでしょう。
ある意味遺伝子的な選択なのかもしれません。
それがすべて正しいとは思いませんが。


でも
消臭剤や香水なんかで自分のにおいを変えている人は
実は自分に合う、大切な人に気付いてもらえないまま過ごすことになるのかもしれない、
もしくは逆に
自分が最良の相手を目の前で逃しているかもしれない
などと、想像してしまう訳です。

別に
においを出せ!という訳ではもちろんありませんで

自然体ってとても大事なんだなー

と普段から思っている中での考察から単純に考えたことです。

少子化であったりはもしかして嗅覚による自分に合う相手を探すことができないから(もちろん極論過ぎです)
なのかもしれない。
と勝手に繋げてみたり。


ただ、
人が人を判断するのは
見た目だけではない


とわたくしは思うのです。
自分のことも差し置いてのまったくの勝手な考察ゆえ
異論などなどはうけつけておりませんのであしからず。


パセリとにおいと洗剤とわたし

をテーマにお届けしました。
posted by yonpurasu at 13:42| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月20日

r el ati vi ty

ギターを弾く日々な

今日この頃


みなさんいかがお過ごしでしょうか?


カーリングって
氷上のチェスって言うんですね。
多分聞いたことあるんだろうけれど
将棋にたとえてしまいました

4+ですが

みなさんいかがお過ごしでしょうか?


そんなこともあるものです。


いろいろ同時進行しているのですが
いつも時間が足りないです。

こういうのは何度も書いたことあるのですが
どうやったら時間を増やすことができるかを

少し変わった観点から考えました。

相対性理論に則って
光の早さで移動しながらレコーディングやら作業をすれば
時間が伸びるのではないか
という考えです。

そうです、アインシュタインのやつですね。

光の早さで移動すると時間が延びるんですよね。
わたしの記憶が間違っていなければ
相対性理論では光が必ず一定の早さということを前提に
時間は伸び縮みするものらしいです。(そこにはジレンマも含まれますが。)

光の早さに近づく早さで移動すると
移動している方は移動していない方に比べて
時間がゆっくり進むのです。

ということは
光の早さでレコーディングをすればいいのではないかと考えたのです。
もちろん
ギターを光の早さで弾くこととは違います。
(どんな曲でも時間をかけずに一発でいいものが弾ければ、それはある意味光の早さかもしれませんが。)


光の早さで移動できる物体に乗って
その中でレコーディングすると

出発した場所に戻っていた時には
まだ時間は10分の一しか経っていない

なんてことが起こればいいですね。


なーんて思ったわけです。

光の早さで移動する物体がない今、
もちろんただ思っただけで
できるわけないことですが。


まぁもっときちんと時間管理をすることが大切なのでしょう。

ちなみに
相対性理論で考えていくとタイムマシンは可能な装置だそうですよ。
(いろいろと誤った解釈がありましたら失礼)




移動といえば
若かりし頃、わたしは
電車で移動するのが好きで(今でもそうですが)
電車で移動することは
人の成長に繋がる
と考えていました。
(新幹線はだめだと考えていました。早すぎなんですよね。混んでる電車ももちろんだめ。空いている各駅はかなりよい。なーんて考え。)


移動時間と距離が
自分を成長させるのではないかと
ちょっと考えていたのです。


一つの線でずっと先まで繋がっていて
それぞれの場所でそこに見える景色やそこに生活する人たちが
入れ替わりやってきては去っていく。


そういう特別な場所って
あんまりないような気がしたのです。

そのなかに身を委ねてゆったりと移動し
その先の土地で新しい経験をする。
きっとそういうことが人の成長を促すような気がしたのでしょう。


実家に帰ったり旅行はもちろんですが、新幹線などで行かずに
各駅停車でたとえば京都や吉野まで行ったこともあったりしました。


そんなときカフカの『城』を読んだら
同じようなこと(移動と成長について)
が冒頭に書いてあって
(現代とまったく時代が違うので電車もかなりゆっくり)
カフカもそういう考えがあったのだなー
とちょっとうれしいような変な気持ちになりました。


話はいろいろ飛びましたが


移動をするということと
時間を使うということと
経験をするということは

なにかしらのつながりがあるのかもしれないと

私はおもうわけです。



嗚呼、時間ってやつ、増えるといいな。
posted by yonpurasu at 19:10| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月01日

h a tc h

ある1年だけ
その1年すべて
スティーブンキングだけを読んでいた

4+ですが

みなさんいかがお過ごしでしょうか?

これ前にも書きましたね。

だんだん記憶が曖昧になっていきますがキングだけをその1年でたしか60冊くらい読んだと思います。

その時はほんとなにかとちくるっていたのでしょうけれども
そういうときがあってもいいじゃないか(ちょっとえなりくん的に)
と思う今日この頃です。

1年とは言わないけれど
他にもまたそういう時期があったりもしました。

ある時期はビートと呼ばれる方々の本や研究本、解説本、書簡などを
読みあさった時期があります。

自分的にブームが訪れ
ドアーズのレイマンザレクが奏でる音を聞きながら
「吠える」や「路上」「裸のランチ」などなどを。
きどってやがるぜ、わたし。

今日は
そのころ考えたことついての考察をば。


いきなり関係ないですが
多くバンドなどを掛け持ちしている時に
人を集めて詩を朗読してもらいながらその詩に合わせてインプロビゼーション演奏をする
ライヴを考えたりしました。
それは残念ながら実現しませんでしたがそのような考えが元にあって
5連続ワンマンの時の「Nのものがたり」に繋がったりしたのを
どこかのMCで話した覚えがあります。


人を集めてライヴをやると言うと
これもずいぶん前の話ですが
ヴォーカルを13人集めて「クリムゾン・キングの宮殿」をカヴァーしてライヴしたことがありました。
ライヴの持ち時間すべてをその一曲だけで過ごすという
なんともおかしなことをしたりしていました。
だんだん人が増えていって。交代で歌ってもらって。
コーラス部分は大合唱な訳です。
おかしいですね。

そのころは
やっぱり将来の最終到着地はコミックバンドかな
なんて半分本気で話していたり。(そんなの簡単には言っちゃいけないほどコミックバンドは難しいと考えます)
おかしなこと は案外、面白い に繋がっていたりしました。



話がそれましたが
徐々に戻ります。


ビートの作品を読むと
詩についての変遷についても考えます。


独学な勝手な解釈な上で書きますが
日本だと万葉集とかそういったところまで遡れるんですよね。

和歌ってやつですが五七に則っています。
歴史に残るものですしなかなかわかりづらいですが
美しいものや悲しいものなどこころに訴えかけるものがいくつもあります。
のちのち枕詞などの修辞がうまれ
俳句などと合わせて詩歌と呼ばれるようになります。
日本では五七の形で進みますが


中国では
漢詩というやつがありますよね。
(NHKの漢詩紀行、朝早かったけれど結構好きでした。江守さん、そして中村吉右衛門さん朗読がよかったですよね)
時代を経て律詩、絶句、の形式が生まれて
韻が踏まれるわけです。技術ですね。

もちろんヨーロッパ諸国、
ギリシャ、イギリスなどなどで詩の形が生まれるわけですが


結局なにをば言いたいかというと


それぞれの中で
詩の形式や技術というのが発達していくんですよね。


これはどこでも一緒だと思います。


形が生まれ

進化していく。


美しいんです。詩というやつは。



そして
後の世に
それを壊す人が現われるのです。


日本でいうと自由律俳句とか。漢詩は形を変えていきますよね。
イギリスでは独白とか。
詩には様々な壊し方があるようです。
作られたルールを壊していくんですよね。

そこに新しさがあるのです。

そしてそれにまた飽きると
そしてまた新たに原点懐古をする。
繰り返していくのです。


かなりざっくりな話ですが

なにかに似ていませんか?

音楽の歴史に似ているんですよね。簡単ですが
クラシック、ポピュラー、ときて
ロックでそれを壊す。
ロックの中にもそういうサイクルがあって
古典ロックからメタル、ミクスチャーなどへ。
こういうのは何度か書いたことがありますね。


そんな中で
壊す、というのは案外楽と私は思うわけです。
目の前にあるものを違う形にする、という意味でです。

何もないところから生み出すというのが
やはり難しいもので
創り出した人
というのはやはりすごいと思うのです。


そんなこんなで
一つのジャンルの中で
形がうまれ、壊され、また原点が見直され
というサイクルが生まれてきます。




ふんわりと進めてきましたが
ここでやっとビートに戻ります。

ビートニクは詩や小説というジャンルではある意味壊す側の位置に属するのだと思うのですが
これがまたちょっと他とは違うように感じるのです。
どう違うのかというと

精神世界と日常の破壊
とでも言いますか

形式やレトリックに対する破壊とか懐古ではなくて
精神的部分を追求をする、
そしてその作家たちの日常が非日常と化している

という感じです。

一種、宗教や精神学のようなジャンルにいっているような感じなのです。

まるで小説や詩の範疇を越えてしまっているようです。
詩や小説を道具としてなにか他のことをやっている、ようなイメージです。

そういう、
詩や小説の
形式や歴史とかに対して
ビートはどの位置なのか
と考えるよりも

一つのジャンルというか分野として捉えていいんではないかと
勝手ながら思うのです。
詩、小説、音楽、映画、ビート、料理、、、、
みたいに。


もしかしたらですが
ビートニクというものの中で
形式がうまれ、修辞がうまれ
歴史ができていくのかもしれません。


と、いいつつも
なぞる人は多くても
その歴史的にはもう発展していないんですよね。
思うに継承者がいない。


自分の生活が
日常が
すべて非日常だったらどうしますか?

そういう世界に入り込む人は
なかなかいないし
しかしそうでなかったら
ビートという分野には入れないんじゃないかと。


ということで

ビートというのは
再現されることない
歴史上の出来事である。



と、


その当時の
読みあさっていた当時の
私は
考え至ったのです。



壊すのは簡単で
生み出すというのは
やはりとても難しいこと。

その生み出した側の人々ではないか。
という
私の中のリトル4+が考えた
勝手なお話でした


マル
posted by yonpurasu at 15:00| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする