2014年01月09日

C h im e

私の中のリトル・4+は

いろいろな機械に付いている緊急停止ボタンを押してみたい

という欲求をもっているようだ。


4+ですが


みなさんいかがお過ごしでしょうか?


世の中には押してはいけない
魅力的なボタン
というものがいくつか存在しているようです。
こどもってそういうのに惹かれたりしますよね。


その魅力に押し倒されないようにしないといけないですね。


リトル・ホンダ。ファンペルシが以前に使った言葉からなんですね。
ケチャップの話といいいろいろな一流選手の行動を学んでいるのですね。




こないだ録画していた怒り新党を見ました。
去年のやつかな?

秋田知事の猫愛、すごかったですね。
以前関係のない公開されているネットの動画でそのシベリア猫本人を見たことがあったけれど
新・三大で取り上げていてかなり面白かったです。
でもこの内容だと、旧が何かわからないので
新の意味が難しいところです。それもひっくるめて面白いですよね。



話が変わるのですが
自転車の道路交通法的なものが変わったようなニュースが耳に入ってきますよね。
そんな話を聞いて思うのが

自転車についているチャイムについてです。

怒り新党ではないですが

あれを鳴らす意味はどのように定義されているのでしょうか?


自転車に乗っている人は歩行者よりも決して上の立場ではありません。
同じ人間です。ルールはあれど上下関係はありません。
これは自動車にもいえます。
自動車に乗っている人は歩行者よりも立場が上であればより多くの権利を持っている、
なんて訳はありません。

町中でこういった風景に出会ったことはないでしょうか?

自転車に乗っている人が
チャイムを鳴らして前を歩いている人を退かしてその間を抜けていく。

もちろん、
人がGメン75のように(でいいんでしたっけ?)道路を横になって何人も並んで歩いていたら
それは歩行者が悪いのかもしれませんが
そうではない細い路だったりした時に
ただ自分が通りづらいから通行人をどかすために
自転車に乗っている人がその自転車についているチャイムをかき鳴らす(あたかも自転車に乗っている人が道路を通るのが優先のように)光景を
私は見たことがあります。


あれはなんなのでしょう?
人に路を譲ってもらって先に進みたいのなら
一声かければよいでしょう。
チャイムを鳴らして蹴散らす行動が
私には理解できません。

『通ります』
とか簡単に
『すみません』
とか
『エクスキューズミー』
とか
何かしら言うことができると思うんですよね。

では、
なぜ
前述のようなチャイマー(勝手に命名)は
何も言わずに
チャイムを鳴らせば
人が路をあけると思っているのでしょうか?



それを考えるに先決なのは、まず自転車にチャイムのある意味を考えるべきなのかもしれません。
私が思うに、
人を蹴散らすためではなく、
人に危険を知らせるためのものなのではないかと思うのです。


自転車が通っている前にいきなり飛び出してこようとするこどもに。
自転車に気付かずに横切ろうとしたりする人やもしくはその他の自転車の人に。
など


いわゆる注意喚起、というやつだと思うんです。チャイムがついている意味は。
私が思うに、人をのかして前に進むためについているんじゃないと思うんですよね。


チャイマーは
なぜ自転車にチャイムがついているのか、
そしてそのチャイムの意味について
考えることはないのでしょうか?

無意識?随意運動?不随意運動?反射?
なんだかよくわかりませんし理解不能ですが

いったい何を考えて
チャイムを鳴らしているのでしょうか?




そして
一つ私は提案するのです。
自転車に関する法律の中に
チャイムの定義を付け加えることを。


チャイムは人をどけるためのものではない。
注意喚起に使うこと。


と。





なんちゃって。

単に思いついたことを書いただけですので
異論反論は受け付けませんあしからず。



そして、
チャイムって言葉を連呼すると
なんだかチャイムって言葉自体の響きに惑わされて
チャイムのことをチャイムと呼ぶのが合っているのかどうかわからなくなってきました。


あの、自転車についているあれ、
チャイム、
って名前でいいんですよね?



そうでないと
チャイマーの意味が全く通らなくなります。



で、
チャイマー、って何?
posted by yonpurasu at 21:00| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月30日

今日の一枚

ある夏の空_s.jpg

ある夏の日の空。


嗚呼、過ぎ去りし日々よ。
その時、私たちは熱(暑)かった。





レンジファインダー好きな4+ですが


みなさんいかがお過ごしでしょうか?

私、銀塩のレンジファインダーだけで6台ほど持っていますが
先日、あこがれのレンジファインダーをさわらせてもらって一枚撮らせてもらいました。
いやー、いいですね。世に作品を残してきた名だたるプロたちが手にしてきたレンジファインダー。

そのファインダーからのぞく世界は
一眼では捉えきれない枠を持っている
とわたくしは思います。
それだけの魅力があるんですよね。

一眼も、そしてコンパクトもとてもいいですが
楽しさや世界観で考えると
レンジファインダーにはちょっと何かがあるのだと個人的に思われます。
だから名のある人たちが多く使っているのでしょうね。



ちなみに
ここに載っけた写真は本文とは全く関係がございません。



この、一眼総手にしてる、の時代に
レンジファインダーを選んだ人って
実はすごくセンスがある人だと
個人的に思います。
嗚呼、いいなー。
まじうらやましい。
posted by yonpurasu at 01:29| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月23日

まったくもってどうでもよい話を書いてみたり。

五年近く使っていたナビアプリが
終了しました。
販売を終了して
そのあとナビ自体も使えなくなりました。

アプリでナビというのは登場当時画期的だったと思います。
それまで地図などに強かったいろいろな会社がこぞって製品を出していました。
当時何が画期的だったかというと
HDDなどのようなナビができなかった
地図のアップデートの素早さがあったと思います。

その頃からテレビなどでカーナビの特売を見かけるようになり
ここ最近ではカーナビのCMはほぼ見かけることすらないでしょう。


さて、
私事ですが
ずっと使っていたものがなくなるというのは
思ったよりも不便で
あたららしく代替品が必要となってきます。

インストールしてあったもののなかから
ちょっと試しに一つ選んでみたのですが

ある検索エンジン、クラウド・コンピューティングを行っている会社にログインしなくてはいけないものでした。
そのアプリ自体がそこの会社が作っているものなので当たり前といえば当たり前ですが
ログインするということは

自分がアプリでナビした場所などが記録される

ということに他ならないなー

なんて思いました。

もちろんその会社はG o ogleです。
ほかにもいろいろなサービスを行っているので
ナビの情報だけでなく
メールや写真Cloud、ファイル共有、You tubeの閲覧情報など
私たちの
様々なものが記録されているはずです。



その昔アメリカの電話会社がものすごい力を持っていた話を聞きました。
今でもそうなのでしょうが
インターネット以前は
電話というのは通信の中で日常的に私たちが使うようになった画期的なツールで
情報を交換する最大の通信網だったと思います。

その会社が大きな力を持ったのは情報、
つまりそこに居住している人たちの個人情報も
ひとつの要因だったのだ、と聞いたことがあります。




いま、
インターネットの世界では
ほんのちょっとした例外を除き国境はありません。
そのインターネットの世界に住む人たちの個人情報を把握することは
きっととてつもなく大きな力を持つこととなるでしょう。



こういうのは今までいくらでも言われてきたことですが、
利便性と引き換えに
自分の情報を受け渡す瞬間
(新しいアプリをひらいてログインする)
を何気なく経験したところで
はっとしたのです。

その利便性に負けている自分を。
自分の情報を惜しげもなくさらけ出す契約をしている自分を。


びっくり。


その昔、
ロバートジョンソンは
クロスロードで悪魔との取引をした。
自分の魂を明け渡す代わりにどんな曲でもギターで弾けるようになる。
というもの。

そして傑作といわれる録音を残し
他の多くのアーティストも曲がりきれなかった
27歳でこの世を去りました。


別にネットの世界やそういった情報を集める会社が悪いとは決して言いませんが


取引をするということは
ずっと未来の自分の世界(そんなに未来じゃないかもしれない)を大きく変えるのかもしれません。



という


まったくもってどうでもよい話を書いてみたり。


おこのみ.jpg
posted by yonpurasu at 14:41| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

待つということ と 基準 というものについて

去年3月あたりからブログという場では
余談は短く書こうと
ふとおもっていたのですが、


ここ2-3ヶ月でちょっと記憶に残った
出来事を一つ長々と書いてみようかと思います。




一人で車で荷物を運んでいて
街道沿いのコンビニ(街道沿いのコンビニは大きいですよね。駐車場が広いところ)
にたち寄りました。


休憩のつもりでコンビニ駐車場に入ろうとしたところ、


白いワンピースを着て靴も白いハイヒールを履いた女性が
駐車場入り口辺りにいました。



夜に、
コンビニ側のライトから照らされた
全身真っ白な女性は目立ち、目に入りましたが、


「ーわ!来た!ー」
という、うれしそうな表情をして
街道の側を見続け
手を口辺りに当てていたので


そのときの私が思うに
多分、
そのコンビニで待ち合わせをしていて
ちょうど自分のうしろ辺りの人(もしくは車)が
その待ち合わせの人なんだろうと、
ちょうどそのタイミングに私が駐車場に入っていったのだと
一人納得して
私は駐車場に入り、コンビニに入りました。



コンビニでコーラを買い(私は無類の炭酸好きです)
車に戻って
コーラを飲みながら
ふと前を見ると


先ほどの女性が
まだ同じ場所で

全く同じように一人で立っていました。



コンビニ側から見ると
歩道の外側の街道の車が速いのと
あまりに風が強い(その日はとても風が強い日でした)
のとで
これまたなんとも不思議かつ特殊な光景で、


強風に吹かれながら
真っ白な服装でいる女性が
(完全なお出かけモードです)
道路を見続けていることが
とても目立つのです。



そして
その女性はまたうれしそうに
(今まさに誰かが)「ーわ!来た!ー」
という感じで手を口辺りに当てていたので
びっくりしました。


そのまま目が離せなく見ていると

時々「ーあれ?まだかな?ー」
という表情をしています。

ですが、また
ちょっとすると
またうれしそうに
「ー待ち合わせの人が来た!ー」
と言わんばかりに
うれしそうな表情をしているのです。



私はそれからしばらくして
ある程度休んだこともあって
車を出しました。


そのあともその女性はずっと誰かを(もしくは何かを)
待ち続けていました。



そんな光景を見たことを
久々に思い出したのですが、



私が今思うに、



人を待つ、というのは、
人を待っている時間というのは、

とても素敵な瞬間なのではないかと思うのです。



待っている時間というのは、
これから起こる楽しい時間や
会えることのうれしさや
そういった諸々の感情が
実は
ある一つのピークになるのではないかと思います。



もしかしたら
誰かと待ち合わせをして
待っている時間、というのは
この上なく幸せなことなんじゃないかと
ふと思ったのです。



では、件の女性の場合、
ずっと待ち続けていて
もし夜中になっても誰も来なかった場合、
とても悲しむのでは?

とも思いました。

そういうこともあるかもしれません。
あるいは、誰も待ち合わせに来なかったことに絶望するかもしれない。


でも、
もしかしたら、
(もっと違う解釈をしたら)




明日、また誰か(もしくは何かを)
待っている(待つことができる)のかもしれない。


とも
ふと思いました。


明日またコンビニの前の駐車場で
期待を膨らませながら
待つことができるのです。



人には個々それぞれに感情や基準などがあると思います。


自分の定規で他人を測ることほど
浅はかなことはないように思われます。






ある出来事から
待つということ

基準
というものについて
考えたのである


マル
posted by yonpurasu at 20:38| essai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする